白い空が開く。
酸化した油のような、重たい滴の侵略。
容赦なく肺に蓋をする。
また、空が閉じる。
取り替えたばかりだった肺胞の予備も、この淀みに一瞬で馴染んでしまう。わたしも揺れに身を任せ、新しい世界に馴染んだふりをする。
水中のバタ足がバレないように、器用に。決して沈まないように、必死で。
いつのまにか、冷たさも、窮屈さも、水の中にいることすらも忘れていた。
空から遠ざかっていく。
わたしはバタ足をやめ、いち早く地面を踏んだ。薄汚れたガラスによく似合う、歪んだ個体が映る。
覗き込もうとしたら膨らんで、消えていってしまった。足裏を支えていた砂たちが、地球を蚕食する。
指の隙間から差し込む光の眩しさから逃げたいのか。
大丈夫。太陽から、君たちは見えていない。わたしと同じ。だからこそ、わたしにはここに、い続ける意味があると思う。
手を伸ばして掬った水を、空に向かって放った。粒になってウルウルときらめき、毛先にすがりついた。
こんな、何もないわたしから、離れられない理由を教えてくれないか。わたしが離れたくないと追いかけてるだけで、本当はいつでも離れられるというのか。
すがりついた水滴を眺めていた。
「あやか?ちょっと休んだら?」
キョトンと顔を覗き込む同僚。よくできた手作りの太陽が、油でべたついた前髪を照らしている。
休む?
その言葉が、ヌワンと身体を一周し、背筋に刺さった。
「えっ。あ。大丈夫!ごめんごめん。」
頭が重力に従って、ずっしりと重たい。口角も巻き添えを食らって、笑顔がぎこちなくなる。声のトーンを翻すとっさのアシストで、なんとかその場を凌いだ。
積み上げられた洗いたてのグラスを、ひとつずつ手に取る。放っておけばそのうち乾くのに、おせっかいな布。グラスの抱えた滴を、率先して肩代わりする。
わたしがやらなきゃ。
わたしが耐えればいい。
まだ頑張れる。
まだやれる。
大丈夫。
中途半端な覚悟。中途半端な優しさ。びしょ濡れになった布を、絞るタイミングが見つからない。氾濫した粒がグラスに戻り、星屑のない夜を賑やかすばかりだった。
「ありがとうございました」
帰っていく客のカバンにくくられた、うさぎのキーホルダーがこっちを見ている。かき乱された毛並み。詰め込まれた綿が雨を吸って、膨張する。窒息を覚悟していた、うつろな瞳。
わたしはうさぎにお辞儀をしたあと、おでこのかさぶたを前髪で隠し直し、振り返った。
頭がボウっとする。目玉が低い温度で焼かれ、その湯気で視界が霞み、壁やテーブルを頼っていた。
空いたテーブルにお冷を並べる。なみなみに注がれ、飽和した水たち。逃げ場のないグラスの中で、汗ばんだ互いの手を握り合っている。
「すんません」
一口かじったら粉々に霧散してしまいそうな、ほろ甘いクッキーの香り。
「磯ラーメン2つ、おねがいします」
金髪の少女らしき生命体。ささくれに集る甘い蜜。注ぎ足される熱湯は、イチジクに吸い込まれ、蒸発する。アールグレイの倦怠が、浮いていた。
少女は静寂をつついた。
その瞬間、わたしの心臓は波打ち、急速に冷やされた熱が、ドバドバと皮膚へ押し寄せた……。
う。気持ち悪い。
水中に潜ったように、周囲の声が遠のいていく。
大丈夫。大丈夫。穴の空いた風船に響かせていた声は、吹き込むだけの息となっていった。床がスローモーションで近づいてきた。よけなかったのか、よけられなかったのか。知らない。
茹でた豆のような、力を必要としない軽い空気。
カチャカチャと空気をつつくクリック音が、おでこに乗る生ぬるい妖精に吸収されていく。
恐る恐る目を開けた。時の流れに逆らう木目が胸を張って見下ろしている。わたしの身体は、地面と結託し、沈んでいく。どういうわけか、木目の油断による雨漏りに備えていた。
「っああ!くっそ死ねえ!!」
めいっぱいこねた生地を地面に叩きつけるような、重たくかすれた声。チカチカとせわしない光に、真っすぐ向かい合う小さな背中。あの時感じた、クッキーの匂いがする。
「ア、オキタ」
無色透明なプラスチックをふにゃりと曲げたような、無機質でほにゃほにゃな声。
首がだらりとこっちを向く。微笑むわけでも、心配するわけでもない、上半身の動く置物。
目が合った。気がする。
時間が止まった。なぜか。
しけったクッキーがほろけていく。
このまま目を離したくないと思った。
ガチャ
強引に破られた空気。細縁の眼鏡に、下がった口角。表面がヒラヒラとほぐされたキノコヘア。今度は誰なんだ。
「おはよう、調子は?」
笑顔があまりにも……。誰かが定規を使って並べたような、完璧な配置だった。
「あ、大丈夫です」
わたしも似たようなものか。今できる最大限の愛想で助走をつけ、起き上がった。おでこの妖精は落下する。仕事に戻らなきゃ。休んでなんかいられない。
床に置かれた食べかけのプリンが、不思議そうに首をかしげていた。
「そのプリン食いなあ?」
右肩に、細くひんやりとした5本の虹がかかる。トロピカルフルーツがじんわり熟していく。
「お前それ食べかけだろ」
眼鏡の男は呆れた様子で少女を咎める。少女は昼寝後の猫のように、ホニャ〜と大胆なあくびをする。二人の間に引かれたカラメルソース。
うだることも焦げることもない。プリンに刺さった銀色のスプーンが、絡み合う二人の影を歪んで映す。
なんだろう。もう少し、ここにいたい気がする。
窓をすり抜けられず、ぶつかり帰っていく雨粒の音を聞きながら、
乱れた前髪で、ふやけたかさぶたを隠した。
