B-side Session#02 Peanut butter

白い空が開く。

酸化した油のような、重たい滴の侵略。

容赦なく肺に蓋をする。

また、空が閉じる。

取り替えたばかりだった肺胞の予備も、この淀みに一瞬で馴染んでしまう。わたしも揺れに身を任せ、新しい世界に馴染んだふりをする。

水中のバタ足がバレないように、器用に。決して沈まないように、必死で。

いつのまにか、冷たさも、窮屈さも、水の中にいることすらも忘れていた。

​空から遠ざかっていく。

わたしはバタ足をやめ、いち早く地面を踏んだ。薄汚れたガラスによく似合う、歪んだ個体が映る。

覗き込もうとしたら膨らんで、消えていってしまった。足裏を支えていた砂たちが、地球を蚕食する。

指の隙間から差し込む光の眩しさから逃げたいのか。

大丈夫。太陽から、君たちは見えていない。わたしと同じ。だからこそ、わたしにはここに、い続ける意味があると思う。

​手を伸ばして掬った水を、空に向かって放った。粒になってウルウルときらめき、毛先にすがりついた。

こんな、何もないわたしから、離れられない理由を教えてくれないか。わたしが離れたくないと追いかけてるだけで、本当はいつでも離れられるというのか。

​すがりついた水滴を眺めていた。

「あやか?ちょっと休んだら?」

キョトンと顔を覗き込む同僚。よくできた手作りの太陽が、油でべたついた前髪を照らしている。

休む?

その言葉が、ヌワンと身体を一周し、背筋に刺さった。

「えっ。あ。大丈夫!ごめんごめん。」

頭が重力に従って、ずっしりと重たい。口角も巻き添えを食らって、笑顔がぎこちなくなる。声のトーンを翻すとっさのアシストで、なんとかその場を凌いだ。

積み上げられた洗いたてのグラスを、ひとつずつ手に取る。放っておけばそのうち乾くのに、おせっかいな布。グラスの抱えた滴を、率先して肩代わりする。

わたしがやらなきゃ。

わたしが耐えればいい。

まだ頑張れる。

まだやれる。

大丈夫。

中途半端な覚悟。中途半端な優しさ。びしょ濡れになった布を、絞るタイミングが見つからない。氾濫した粒がグラスに戻り、星屑のない夜を賑やかすばかりだった。

​「ありがとうございました」

​帰っていく客のカバンにくくられた、うさぎのキーホルダーがこっちを見ている。かき乱された毛並み。詰め込まれた綿が雨を吸って、膨張する。窒息を覚悟していた、うつろな瞳。

​わたしはうさぎにお辞儀をしたあと、おでこのかさぶたを前髪で隠し直し、振り返った。

頭がボウっとする。目玉が低い温度で焼かれ、その湯気で視界が霞み、壁やテーブルを頼っていた。

​空いたテーブルにお冷を並べる。なみなみに注がれ、飽和した水たち。逃げ場のないグラスの中で、汗ばんだ互いの手を握り合っている。

「すんません」

一口かじったら粉々に霧散してしまいそうな、ほろ甘いクッキーの香り。

「磯ラーメン2つ、おねがいします」

金髪の少女らしき生命体。ささくれに集る甘い蜜。注ぎ足される熱湯は、イチジクに吸い込まれ、蒸発する。アールグレイの倦怠が、浮いていた。

少女は静寂をつついた。

その瞬間、わたしの心臓は波打ち、急速に冷やされた熱が、ドバドバと皮膚へ押し寄せた……。

う。気持ち悪い。

水中に潜ったように、周囲の声が遠のいていく。

大丈夫。大丈夫。穴の空いた風船に響かせていた声は、吹き込むだけの息となっていった。床がスローモーションで近づいてきた。よけなかったのか、よけられなかったのか。知らない。

茹でた豆のような、力を必要としない軽い空気。

カチャカチャと空気をつつくクリック音が、おでこに乗る生ぬるい妖精に吸収されていく。

恐る恐る目を開けた。時の流れに逆らう木目が胸を張って見下ろしている。わたしの身体は、地面と結託し、沈んでいく。どういうわけか、木目の油断による雨漏りに備えていた。

​「っああ!くっそ死ねえ!!」

めいっぱいこねた生地を地面に叩きつけるような、重たくかすれた声。チカチカとせわしない光に、真っすぐ向かい合う小さな背中。あの時感じた、クッキーの匂いがする。

「ア、オキタ」

無色透明なプラスチックをふにゃりと曲げたような、無機質でほにゃほにゃな声。

首がだらりとこっちを向く。微笑むわけでも、心配するわけでもない、上半身の動く置物。

​目が合った。気がする。

時間が止まった。なぜか。

しけったクッキーがほろけていく。

このまま目を離したくないと思った。

​ガチャ

強引に破られた空気。細縁の眼鏡に、下がった口角。表面がヒラヒラとほぐされたキノコヘア。今度は誰なんだ。

「おはよう、調子は?」

笑顔があまりにも……。誰かが定規を使って並べたような、完璧な配置だった。

「あ、大丈夫です」

わたしも似たようなものか。今できる最大限の愛想で助走をつけ、起き上がった。おでこの妖精は落下する。仕事に戻らなきゃ。休んでなんかいられない。

床に置かれた食べかけのプリンが、不思議そうに首をかしげていた。

​「そのプリン食いなあ?」

右肩に、細くひんやりとした5本の虹がかかる。トロピカルフルーツがじんわり熟していく。

「お前それ食べかけだろ」

眼鏡の男は呆れた様子で少女を咎める。少女は昼寝後の猫のように、ホニャ〜と大胆なあくびをする。二人の間に引かれたカラメルソース。

うだることも焦げることもない。プリンに刺さった銀色のスプーンが、絡み合う二人の影を歪んで映す。

​なんだろう。もう少し、ここにいたい気がする。

窓をすり抜けられず、ぶつかり帰っていく雨粒の音を聞きながら、

乱れた前髪で、ふやけたかさぶたを隠した。

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yuzuha

yuzuhaのアバター yuzuha シンガーソングライター

歌って、昼寝して、遊んで、また歌う。
「ユズハの目を見てると眠くなる」って色んな人に言われるので、不眠の人に処方してみてください。
まっとうなクズを目指し、楽しいことに貪欲に生きてます。