B-side Seccion#01    Sea through

乾いた風が吹く。

慰めることも突き放すこともない、無責任に透けた手。

気まぐれに少女の肩を抱き、飽きれば骨をすり抜けてどこかへ旅立ってしまう。

世界を這いつくばってきた彼からすれば、少女はあまりに無機質な粒にすぎない。 今この瞬間を埋めるだけの、退屈な遊具。

少女は、そうやってもてあそぶ彼を気にも留めない。 片目を失ったクジラのぬいぐるみに自らの片目を預け、共に、ただ流れていく雲を見上げている。 ここらの誰よりも、あの空に近い場所で。

自分の身体を縁取る皮膚が、感覚を失い、ジリジリと削れていく。 全身にノイズが増えていくたび、一人ではないという奇妙な幸福感がこみ上げてくる。

すりガラスに傷が増えていくだけ。 そこに、もう痛みはない。

空が、濁った灰色に沈んでいく。

これは神様から私への、安っぽい罰だ。

あの日、弟が死んだ瞬間。一瞬でも、ほんの一瞬だけでも「やっと終わった」と、どこか安堵してしまった私への。

これでいい。 青い空を美しいと定義する権利なんて、もう私には残っていないのだから。

それなのに、なぜか。 この地を這うような曇天の淀みが、粉々にして呑み込みたいほど美しいと感じてしまう。

私は人間に化けた怪物だったのだろうか。 それとも、中途半端に人間の「愛」とやらをインプットしてしまったせいで、内側の歯車が狂ってしまったのか。

少女の澄んだ瞳は、その瞬間、ただモノクロの虚無を映し続けるだけの防犯カメラになる。 自分から電源を切ることすら許されないもどかしさを、ピントを合わせないことでやりすごした。

ぼやけた幻想の世界。 見たいものはいつも、死角であざ笑うだけだ。

空を必要としなくなった私は、重力に従って視線を落とした。 ゆらゆらと波打つ地面。 じっと見つめる先で、風にあやされる葉の影が、この空虚な世界をなんとかごまかそうと必死に叫んでいる。

ファサッ

空気が、微かに震えた。 そこに、翼を背負った鳥が歩いている。

飛び方を忘れたのか。 空のあまりの大きさに、絶望したのか。 「飛ぶ」という行為の滑稽さに気づき、自分が鳥であることを辞めたいと願ったのか。

あるいは最初から、自分に羽があることすら、気づいていないのだろうか。

見えない檻の中を行ったり来たりするその足音は、狂うことのないメトロノームのように、無機質なリズムを刻んでいる。 その背中はあまりに静かで、雄弁だった。

カサッ

君は、確かにそこにいる。 だけど、私はここにはいない。

それを証明するために、わたしは浅い呼吸を繰り返している。 これは「生きたい」と願ってやまない誰かの分まで、この有限な空気を存分に吸い込む略奪であり、虐殺だ。

誰にも気付かれないように、スポンジを深く噛ませる。 吸い込んだ音を肺の奥に押しつけたまま、固く、離さない。

目を閉じる。 それでも、眼球が行き場を失っている。

どれだけ強く瞼を閉じようと、目の奥の奥の、そのまた奥にあるもう一つの目が、乾いた足音を探し続ける。 遠くから、子供たちの笑い声が聞こえる。 意図的にサンプリングされた、悪意のある不協和音。

ここは踏んではいけない鍵盤の上。 半音ずれることが、取り返しのつけない「間違い」となる世界。

悲しさ。寂しさ。恐れ。 そんな強弱を失い、ただ平坦になったわたしの演奏は、いつしか自分を粉々に打ち砕く、強烈なアクセントを欲していた。

間違えのない、自由で、孤独な、暖かい音楽を。 ただもう一度、取り戻したかったのかもしれない。

夜が来るたび、星の監視下にさらされる。 少女の視線は、星の隙間をくぐりぬけ、星座を横切っていた。

暗闇にわずかな光を散りばめておけば、それが「希望」になるとでも思っているのか。 投げやりな励まし。うんざりだ。 でも、怒りをぶつける体力も、対象もなかった。

彼女は、地面に横たわる。 湿った土の香り。 ふと訪れる、人間だった頃の記憶。

太陽に透けた紅茶のような、うるやかな灯りのともる家があった。 破裂しそうなほど、強く抱きしめてくれた父と母。 「大人になりたい」と生意気にはしゃいでいた弟。 ダンゴムシを指でつついて笑い転げた仲間たち。 火傷するほどホカホカな、とろける温泉卵。

ほら。私の人生は、悲惨ではなかった。 何層にも重なる音の中で、深く、どこまでも広がっていく歌声の中で、私は確かに、愛されていた。

それだけで、もう、十分だった。

死にたいわけじゃない。ただ、もう、満足してしまった。 このまま、地層の一部になって、いつか誰かに砂のお城にでもしてもらおう。

生ぬるい土を足元にファサ、ファサとかけて、少女はいつもと変わらない、眠るための準備をしていた。

風が、止んだ。

ふと、視界の端に何かが映り込む。 これが俗に言う“お迎え”だろうか。 こんなに、くっきりとした輪郭なのかと彼女は感心した。

顔を上げる力はない。 けれど、そいつは少し離れた場所で、ゆっくりと、少女の視界を遮るように顔をねじ込んできた。

暗くて、顔はよく見えない。 ただ、がたいのいい人間の形をした何か。

そいつは何も言わず、ただ、そこに、トンとしゃがみこんでいた。 少女は、乾いた唇の端をわずかに上げた。 再び流れ込んできた風が、砂をシャララ……と運びながら、少女の周りに集まっていく。

まばたきと同時に、景色をシャットアウトした。

そこからどれほど眠っていたのかは知らない。 何年か、何日か、数分か、数秒か。

ドォンッ

この世で一番、贅沢な目覚まし時計に叩き起こされた。 心臓を貫くような激しいドラム。 干からびた身体の節々がバラバラに砕け散った。

もっと、もっとほしい。麻薬のような快感。

これは、天国の招待パーティなのか。 そう期待して眼球を起こすと、そこにはまた“そいつ”がいた。 黙って、蓋を開けた水筒を差し出してくる。

そうか、こいつがここの門番だったのか。

受け取る意志などない。 ただ、差し出された水筒を、少女はぼんやりと眺めていた。

テクテクとのんきに砂を荒らしていた鳥は、速足で山を下っていく。

ドゥン…

閉じ込められた窮屈な水面の中に、小さな波紋が広がっていく。 そこには、私が捨てたはずの強弱があった。

チカチカと、まばたきするように、まばらなリズムを刻んでいた。 赤や、青の、決して交わらない自我の強い和音。

希望、という名の暴力を、全身に浴びた。

もう嫌だ、いやだ。 その眩い暴力に、抗えない自分がいる。

少女の震える指先は、光の残響をそっと連れて。

星の消えた夜の底へ、じんわりと沈んでいった。

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