Apéritif
「降る雪がぜーんぶ、チョコレートだったらいいのにな~」
なんて、明治のCMみたいな空想を繰り広げている。そもそも雪は勝手に降ってくるもので、誰かから与えられるものじゃない。
まあ、天からの恵みだとか、どこぞのGODがどうのこうのとかそんな解釈もできなくないが。
待てよ。その場合は”わたしが降らせました”的なおじさんプロマイドがついてくるんだろうか。
それは空からおじさんが降ってくるのと大差ないな。
せめて地面に到達するまでにアランドロンの写真にすり替えてほしい。いや、でもアランドロンを踏みつけるわけには行かないな。
なるほど、踏み絵で生死が分かれる気分はこれに近いのか。
結局、返すべき”誰か”が存在することで、わたしはいつか返さなきゃいけない罪悪感を抱くことになる。
一方勝手に降ってきただけのチョコレートなら、こっちも返しようがないから無邪気に浴びることができる。
そうなったらこの際、口裂け女になることもいとわない。大きな口を開けて空を仰いで、なんなら眼球でもキャッチできるようにスタンバるんだ。
体内を100パー天然チョコレートにして、無添加人間になるんだ。ふふふ
Débordement
スーパーの鮮魚コーナーで、おじさんに捌かれる魚を眺めていた。そしたらおじさんが出てきて、「ホレホレ」となんかのアラをくれた。
塩かけて焼いて食べると美味いよと教えられ、素直に従ったら絶品だった。
フラりと彷徨った先でエサをもらう。
やっぱり僕はネコだったのか。
近所のお祭りで、金魚を眺めていた。
ライムを踏んだわけじゃない。
おもちゃにされる金魚はいったいどんな気分なんだろう。
仕方ねえ付きやってやるか(ドヤ)みたいな、中二病すれすれの拗らせ彼氏的思考なのか。遊んでもらえてラッキー!みたいな、ポンコツ花畑思考なのか。
後半はお察しの通り、わたしのことだ。
そんなことを考え、ポカンと半開きの口で金魚の仲間入りを目指していた。
するとテクテクと通りすがりのニキが近づいてきた。何故か、金魚すくいを1回やらせてくれることに。金魚と同じ、暇つぶしに弄ばれたみたいだ。
やったあ!
これで晴れて金魚の仲間入りを果たした。
もらってばかりの人生。対して僕は食って寝て、歌ってヘラヘラしているだけ。恐ろしいほどに何の価値もない。
ネコネコであり、コジコジであるのだ。
もはや価値がないことこそがわたしの価値だと、屁理屈甚だしい開き直り思考。自己肯定なんて恐れ多い。無価値であることを受け入れ、もはや失うものが何もない感覚。
無敵。
なんなら敵がどうこうというより、無なのだ。この虚無感こそが、わたしを自由にしている。
無のつく言葉でわたしが好きな言葉は、”無償の愛”だ。
なんだ、急にロマンチスト気どりか。
おのれには”無一文”あたりが似合うと言われても返す言葉がない。
どうやら金を持たない代わりに、無駄な言葉ばかり覚えたらしい。
こういう人間は老害予備軍だから、あまり関わらないほうがいい。
それでも金魚のフンとして立候補するなら、喜んで一緒に沈もうと思う。
無償の愛をじっくり語りだすことには、リスクがある。無意識にスクロールし続けた指が、寝ている間も空中をスクロールしだす恐れがある。
こんなことを書いてる間にもあなたの指関節は無駄に動いている。わざとじゃないんだ。とりあえず何から語りだそうか考えてる間、ピースでもしておくか。
そういえばピースって人差し指と中指の2本で表現するのが一般的だけど、小さい子の多くが親指と人差し指でピースしがちなのなんなんだろ。
指が短くて物理的にああなるのか?ひたすらかわいいだけなんだよな。
必殺、内臓握り潰し。効果は抜群だ。これで世界はラブアンドピースに満たされる。
そういえば昔ラブ&ベリーっていうゲームがあったな。それに使われてる歌の歌詞が最高なんだよ。
ネットでかなりこすられてるから詳しく書かないけど。元気失ったら聴くといいよ。タイトルは、
「なつだ!プールだ!レッツゴー!」
……なんてはしゃいでる場合じゃなかった。
そろそろ本題に入ろう。
無償の愛とは、見返りを求めなければ成立すると、ここ最近まで思っていた。それなら簡単やん。ハイあげる~言うて、お返しはマジいらんよって言う・思うだけだから。
でもふと思った。見返りってそもそも何なのか。
見返りを求めない状態なんてこの世に存在するのか。何をしても結局は自分のエゴに帰結する、それなら何かをあげて何も受け取らないなんて不可能なんじゃないか。
これには”贈与”と”交換”が深く結びついてるらしい。
最初の雪チョコレートでいうと、贈与は「はいチョコあげる~、食え食え~」。交換は「チョコやるからお返し待っとるぞ~」。
これを暇人がめんどくさく考えた『贈与論』という考え方がある。
ぶっちゃけわたしがここでグダグダ話すより、本を読んだ方が早いけどね。
と真っ先に逃げ道を確保。
ウシっ。
一言でまとめるなら、贈与は「返さなきゃ」と思わせた時点で、究極はもらったことを自覚させた時点で贈与じゃなくなるという論。
つまりボランティアも直接の親切も、大半は交換だということ。
たとえば欲まみれ、チョコレートを全身に塗りたくるボランティアという行為。
SNSにUPされた投稿、
”ボランティアしてきた”
に対する最適解は2つ。
偉いねえ、とオーバーめなリアクションと、頭ワシャワシャだ。
脳内では「反省してまーす」のトーンでよしよし。自己顕示欲にチョコレートをディップしてあげよう。
チョコ&チョコ。たまらない。
たかがチョコ、されどチョコ。
ここはチョコに溺れていられる、夢の楽園だ。
自分の善意を誰かに伝えるってのは、自分はそれだけすごい人間です。偉いのです、優しいのです。わっはっは。と権力を見せつけるような行為。
クッパくらい分かりやすくウヒャーハッハーって、ひっくり返って嘲り笑ってくれたほうがすがすがしいまである。
そして誰かに感謝されることは、それだけで見返りなのだ。
「何も返してくれなくてもいいけど、”ありがとう”って言われたい。喜んでる顔がみたい」この思考は矛盾している。
紛れもなくこれは交換なのだ。
良いか悪いかの話じゃない。ただ贈与だと思ってることの多くは交換かもしれないって話だ。
デモ隊を恐れてつい見苦しい保険をかけておくあたり、わたしはちゃんと人間のDNAを持ってるらしい。
じゃあ、どうしても贈与というものを成立させたいなら、どうすればいいのか。
自分の番で無くなったトイレットペーパーを補充しておくこと。小学生レベルの話だが、これは贈与になると思う。あくまで個人的な意見だけど。
なぜなら、次にトイレに入った人が”受け取った”ことを意識する可能性は低い。もともと”在る”ものだと、何も意識せず巻き巻きしてうんこを拭く。
受け取ってしまった罪悪感を抱かず、返さなきゃとも思わず、誰がやったのか顔も名前も知らない。もともとそうであったように。
無意識の中に贈与があるのだ。つまり贈与は気づかれないことが多い。
目の前でやってあげるより、誰もいない場所で事前に防ぐことが贈与だとも言われている。
贈与は身の回りに溢れているけど、それに気づくのは難しい。気づいたらそれは贈与じゃなくなるという。もう考えるめんどくささを通り越して興奮してくる。
「せっかくしてやったのに感謝の1つもなかったぜ」なんてダサいこと抜かしてる奴らの裏側で、秘密結社を設立しようと思う。
誰にも気づかれないように仕掛けられる楽しいいたずらを考える。誰にも作戦を漏らさない。そしてさっさと忘れて、また新しいゲームを企むんだ。
それを相手が気付こうが気付かなかろうがどうだっていい。気付いたらいいな~って、ニヤニヤ妄想するだけでいいのだ。
究極は気付かないでほしいくらい思うらしいけど、わたしはその境地にはたどり着きそうにない。
せっかく仕掛けたならいつかは気付いてほしいと思ってしまう。
理由は決まってる。
その方が面白いからだ。
Mélopée
最初の話で、仮に白髭おじいが現れた場合、わたしとおじいの間には支配関係ができてしまう。
お返ししなきゃ。歯が折れない柔らかめのおせんべいにしようか。でもふだん雲ばかり食べているかも。だとしたらシロップとかの方が喜ばれるか。
なんて気を遣わないといけない。それが快楽にも呪いにもなる。
産まれた途端、多重債務者となるわたしたち。
その足枷が人類滅亡を阻止しているのだと言い聞かせ、何とか心の平穏を保とう。
そして返そうと、与えようとすればするほどもっと受け取ってしまうジレンマ。
小腹が空いて食べ始めると、ブラックホールが出迎える現象そのもの。
ならいさぎよく諦めようじゃないか。
それでは聴いてください。乞食で、
「それ、一口ちょうだい」
パチパチパチ。
ええ、最後にみなさんにお願いがあります。
毎朝わたしの家の前にチョコレートを落としていってください。チョコレートには一言、
「捨てられました。拾ってください」と。
そして食べてほしそうな目と暗い顔を覚えさせてください。
あ、苦いのは嫌いだから、これでもかと甘やかしておくように!
