Apéritif
「底辺の仕事をしてる自分が惨めに感じる」
ある人がそう言った。
こんなとき、わたしは黙ってられないのだ。
劣悪な労働環境での搾取・差別などはまた別問題だから、それは別の機会で書こうと思う。
誰もが知る消費社会。大量生産・大量消費。それに伴う長時間労働やひろがる格差。
自由な時間がどんどん奪われ、周りと比べ、承認欲求に駆られ、命尽きるまで誰かと競争し続け、自分の価値を見失い、生きる意味が分からなくなっていく。
楽しんでるふりをするためのパーティー。
自分の居場所がちゃんとあると安心するためのお祭り。
認めてもらうための恋愛。
自分の賢さをアピールするためだけの知識。
そんな中での価値って、何だろうか。
Débordement
数か月前、高級寿司屋のアルバイトをした。コースで2万円ほど。
その帰り道、わたしは80円の紙パックジュースを買った。
家に帰って、ジュースを味わった。コップに氷を入れて、ジュースをほんの少し入れて、チビチビ飲んだ。
これを、あなたはどう思っただろうか。惨めか、ささやかな幸せか。
昔のわたしなら確実に惨めだと嘆いていた。お金があれば。そのための能力があれば。よし、何か資格を取ろうか。なんて。
今は迷わずこう思う。「喉が渇いたときにジュースが飲めるなんて幸せだな。」
なんか、思考が修行僧みたいで変だと思われるかもしれないけど。
海外に行くほど自由にお金を使える時期も、バイト帰りの電車賃が80円足りなくて帰れず外で寝た日も、どっちも経験してきた。
特別扱いも、ゴミのような扱いも。
いじめる側も、いじめられる側も、止める側も、助けられる側も、見て見ぬふりをする側も。
どれだけ苦しい瞬間があっても、それがずっと続くわけじゃない。皮肉にも楽しい時間も。
その時の一時的な状態で、相手の感情で、人生の価値は、自分の価値は決まらないのだ。
仮に今、自分を惨めだと感じていても、どれは今の状態なだけで、あなたが惨めなわけじゃない。
そう伝えたかったけど、ある人には上手く届けられなかったと思う。
世間が底辺だとかゴミだとか言ってても、自分が何か価値を感じていたら、楽しいとかやりたいって思えるなら、それでいいじゃんか。
給料っていう目に見えて分かりやすい判断基準に従うのか、心っていう誰にも奪われない自分だけの判断に従うのか。
「あれが欲しい」「これがあれば」。
「これができる」「あれをやりたい」。
そろそろ、さ。
Mélopée
とある人は競争の中で奴隷になることで、時間や心を売って派手なドレスと社会的信頼を買う。
空の心が見えないように、それらを纏って自分を覆いつくす。
周りからチヤホヤされ、夜通し遊び、人生を楽しむ。
運命の相手と結婚し、めんこいベイビーを授かり大きな家を買い、孫を抱いて幸せを描く。
とある人は競争から離脱することで、自由と制限を買う。そして人間らしさを。
その自由を全力で楽しみ、制限までも自由に変える。
周りから冷ややかな目や心ない言葉をプレゼントしてもらえる。
ワクワクすることを選び、世界にこだわり続け、自分を、誰かを深く愛する。
もちろんこの2択じゃないけど、偏見を交えおおざっぱに。
どちらがいいとか、優れてるとかそんなのはない。
誰にも強要したくないし、分かってほしいわけでもない。
ただ、価値を見失いそうでどんよりしてるあなたが、新しいカケラを見つけて自分のパーツにしてくれたら嬉しいな。
自分の価値は、自分自身で気づくんやで。おやすみ。