「上手さ」なんて耳クソだ

Apéritif

歌い始めた頃、 自分の歌声があまりにもダサすぎて、 耳クソ探検隊してた。そうだ、耳クソが邪魔して聞こえ方がおかしいんだ。これは夢だ。

そう願ったが、耳クソは留守だった。

全裸でダンスして世界平和を訴えたほうが、 まだマシかもしれない。

だけど不思議なことに、 「ずっと歌っていれば、 いつか突然声が変わるかも」 という天才的な妄想にとりつかれ、 根拠のない自信で雨粒を避けながら帰った夜。

このころはまだ、 「上手い下手」なんて 気にするほどのレベルにも達していなかった。

Débordement

そこから、 憑りつかれたように毎日カラオケに通い、 高音を出そうと祈りながら喉をつぶした。

YouTubeやブログたちのアドバイスを漁りに漁り、 ボイトレ動画を狂ったように再生。部屋で1人、ボイトレの先生の顔マネ。変顔パラダイスだった。

「あれ?今、高音出せた!……気のせいだった」 「あれ、昨日は確かに出せたのに……まぐれか」

単細胞なりに、 昨日の自分に負けたくなくて がむしゃらに歌い続けていたら、 あっという間に1年が過ぎていた。

そして、いざ人前で歌い始めたとき、 世界の広さを思い知らされた。透き通った高音、響く低音、 なめらかなビブラート。

おならを我慢してむしろ変な音が鳴ったときくらいの、悔しさと恥ずかしさが襲ってきた。

「やっぱり、才能ないのかな……」

ありがちな焦りと挫折にまみれ、 自分が何のために歌っているのかさえ 分からなくなった。

似たスタイルの遥かに魅力的な歌手に出会い、

「わたしが歌わなくても、代わりはいくらでもいる」

という自己嫌悪で、もう歌いたくない苦しいって思っていた。

Mélopée

幸運なことに、 仲間が救い出してくれた。

「おーいユズハー、そっちじゃないぞー」(ゴールデンカムイ杉本風)

自分が歌い始めた理由を、 思い出した。その代わり鍵を置く場所を、よく忘れるようになった。

伝えたい想いがあって、 誰かの声を代弁したくて始めた。何より歌うこと自体がただ楽しかった。

やっと視界が開けた。

「ああ、、楽しい……!」

大した技術はなくても、 「ユズハの歌で涙が出た」と 言ってくれる人まで現れた。

なんだ、自分の心はちゃんと届くんだって初めて実感した。

結局、本当に大切なのは、 「上手さ」なんかじゃない。

自分がなぜ歌うのか、 誰のために歌うのか、 自分の人生をどれだけ豊かに歌に込められるか。どれだけ遊べるか。

また迷ったときは、 自分に聞いて。

「で、そもそも何のためにやってる?」

その答えをお守りにして、 ずっとずっと続けること。

ちなみに、わたしは最近カラオケで、

縄文土器と弥生土器、どっちが好きか

真剣に考えています。

どっちもドキ?

土器土器ドキドキ——乾p。

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yuzuha